第11回

仕事で神経を擦り減らしていたある時、友人がそっと手渡してくれた本。猫のいろいな行動が、それぞれ絵と短い一文で語られている。いい意味で、自分勝手に生きたい、いや生きていいんだ、と思える本である。

92年に日本でも単行本として刊行され、自らエイズ患者であることを公表、自分自身の姿だけでなく、同性愛や実在の人物とのスキャンダラスな関わりについて書いた、その内容がセンセーショナルに取り沙汰された本である。最初は題名がどうにもひっかかり、また、ここまで他人のプライバシーを書いていいものかと思った一方で、常に「死」を意識せざるを得ない状況が続くということはどういうことかを深く考えさせられた。

モスクワで4年に1度、1か月間にわたり開催されるチャイコフスキーコンクール。
その舞台裏がいきいきと描かれているだけではなく、世界にあまねくあるコンクールというものの持つ意味について考えさせられる。そのコンクール独自の安定したいくつもの審査基準にかなう、いわば器用な者が、最終的に勝ちを得るシステム。ある一部分にキラリと光るものを持っているだけでは、残れない。才能さえあれば、と思いがちな音楽の世界も、プロとして活躍するとなれば、他の世界と似た基準をクリアする必要があるらしい。

タイトルからはちょっと想像出来ない、なかなかにハードなアジアの旅の物語。
最初に着いたプノンペンで、いきなり内戦に巻き込まれ、さらには行く先々で、ポンビキ・路上で声をかけてくる女性たち・ドライバーたちに悩まされながらの旅に、読者も、自分が熱帯の地で悪戦苦闘しているような気になってしまい、思わず額に汗が出てくるかも。
もちろん、そんな中にも著者とアジアの人たちとの長いつきあいから、生まれてくる人間ドラマがあり、激変するアジアの中で翻弄されながらも生きている人たちの姿もありで、なかなか読み応えのある一冊です。

他人の人生っておもしろい。それが自分にできそうもないことならなおさら。8人の日本人と1人のヤップで暮らすパラオ男性がそれぞれの章の主人公。ドキュメンタリーだけど、少し著者のフィルターを通っているから、それなりの人生劇になっている。「今の自分の人生だけが生き方じゃない。どうにでもなるもんよ人間なんて」って煮詰りかけている心をラクにさせてくれる1冊。ただし、くれぐれも著者のフィルターを通っているので、少し割り引いて読んでみたり、もっと深刻なんじゃないの?って思うところもチラホラ。

31編の詩集。テーマは、痴呆の夫と女自身の心。はっきりいって重い。けど、たんたんとしている。著者の思いに胸がつまった、涙があふれた。終ってゆく夫をみつめる女。捨ててしまえるわけもなく、捨てようにも愛情みたいなものがしみついていて。そんな気持ちが一篇の詩のなかでいったりきたりしている。最後まで目を反らすことのできない現実。夫に対する気持ちってなんなんだ。

アラスカ物語・氷原〜新田次郎全集
第14巻〜アラスカのガイドブックで何度も目にする「『アラスカ物語』のフランク安田」という人物。誰だ?私は知らないぞ。悔しいので読んでみた。彼は明治元年に石巻の名家に生まれたが、生家の没落を機に日本を去った。たどり着いたアラスカでは、ゴールドラッシュが先住民の生活を踏みにじっていた。そこに登場した救世主がフランク安田であった。伝記小説なのである程度脚色されているとしても、すばらしい人物だよ彼は。

作法の極意 NHK作法の極意製作グループ
編各章の登場人物の会話がおもしろい。多用されているイラストは、いい雰囲気だが写実的ではないので役には立たないかも。熨斗(のし)とは、祝事の贈答に珍重された「のしあわび」が起源であった。なんていう、どうでもいいコラムが楽しい。小笠原流礼法では、ビッグマックは薄く押しつぶして食べるべし。それ、お行儀悪いんじゃないの?

空海から石川啄木まで16人の書家をとりあげ、人となりやどんなものを何のためにかいたのかわかりやすく解説してくれる。
わたしは以前から国宝「離洛状」で有名な藤原佐理の書が大好きだった。その豪快にして繊細な筆到。ところがこの人、不真面目の大酒飲みで小心者。失敗を重ねてはお詫びやいいわけの手紙を書きまくっていたらしい。この「離洛状」もその一種。それにしても書という芸術は心の平静も人間としての精進もあまり関係がないということがわかってうれしかった。

「現代美術は難しくてよくわからない!」という人にぜひ読んで欲しい。現代美術を理解するには少し学習が必要なのです。見れば分かる! というのは現代美術には通用しないみたい。アーティストのコンセプトが理解できたらかえって現代美術は簡単明快。この本を読むと普通の便器にアーティストのサインがあるだけの作品(マルセル・デュシャン 「泉」)が20世紀を代表する芸術といわれるのもわかるような気持ちになる。芸術は「コンセプト」とそれを表す「装置」であるというのには深く納得した。